書店で「傾聴」に関する本をよく見かけます。私もその必要性を感じて今まさに学習中です。カウンセリング技術を身に付けたいのは、自分自身が生きやすくなる為なのですが、せっかく学ぶのであれば、対人ストレス対策以外にも応用していきたいと思い、元々の趣味である読書とかけ合わせてみることにしました。キャッチーに定義付けたいので、自分の中で「傾聴の読書」と呼ぶことに決めました。
本は読むだけだとその時一瞬の感動に終わってしまいがちで(それはそれで素晴らしい体験なのですが)、読書から何かを得ようと思えばアウトプットするのが一番です。となると、手段としては「読書感想文」が最初に連想されますよね。
子どもの頃から馴染んできた課題ではありますが、好きになれないまま、いい大人になってしまいました。今でも作文はジャンルを問わず苦手です。それでも人よりは多少書けたものですから、読書感想文が学内で評価されるなど成功体験もあるのですが、好きか嫌いかと問われれば、やはり嫌いです。
子ども時分の作文や読書感想文というと、レポートや論文と違って、自身の体験や感情の吐露そのもので、言語化(文章化)の過程には相応の苦しみがあり、その公開には羞恥が付き纏いました。
「登場人物のこういうところに共感しました」「この考えはおかしいと思いました」――読書感想文では、専ら自身の価値基準に照らし、登場人物に共感または反発した点についてを言及していましたし、多くの皆様もまたそうではないでしょうか。
読書を、この「自分」主体の読み方から、一歩進めてみたいと考えます。この場合の読書の対象は、主に小説など、複数人が登場する物語、かつフィクションとしておきます。(ノンフィクション、エッセイでも可能でしょうが、ひとまずは……)
具体的に、「傾聴の読書」では、固有の価値観による判断で「感想」を抱かないようにします。登場人物の発言及び非言語的主張を共有しながら読み進めます。「自分」を脇に置いて「傾聴」姿勢で読むことで、登場人物の人間性をより正しく理解することができるはずです。もしかすると、作者にさえ真に理解されていない登場人物がいるかもしれません。ふいに端役の孤独を掬いあげられるかもしれません。期待を高めると楽しみが増します。ただ、相手は活字の向こうにしか存在せず、「傾聴」の正誤を確かめることはできないし、相手に何ら作用を及ぼせず一方通行であるという点は、少々寂しいですね。
ちなみに、自分の価値観に準拠した読書においての感想文は、理解・共感できない登場人物を「悪(敵)」とし糾弾するような論調になりがちですが、「傾聴の読書」では全てに共感していきます。全肯定するわけではなく、何者も何事も、それとして受け止めるということです。「傾聴の読書」によって、独自の法で他人を裁く高慢さを戒め、俯瞰的視座を手に入れられるのではないか、また、人間の個別性を当たり前に認められるようになり、それがこれからの社会を生きるよすがとなるのではないか、そのように期待して始めてみるものです。
「傾聴の読書」の感想文には、『登場人物が』何を語っていたかが綴られることになります。『私が思ったこと』ではないのが、普通の読書感想文と異なるところです。客観的かつ分析的でありながら、包容力に満ちた目線でもって読書を楽しめるのではないでしょうか。
まだ練り足りぬ構想段階ではありますが、思索を重ねつつ、のんびり試みてゆこうと思います。